IMG_1564 (543x800)前回のブログで、クロアチア民謡とハイドン、ベートーヴェンとの関係性を明らかにしたのは、ドイツ系クロアチア人フラニョ・クハチ(Franjo Kuhac,1834-1911)であるとご紹介しました。
さて、このフラニョ・クハチという人物について、調べてみましたので、少し書いておきます。

現在のクロアチアにあるオシエクで生まれ、両親はドイツ人で、Kuchという苗字であり、クハチは37歳までこの苗字を使っていました。
1856年、22歳の時、ワイマールにて、数週間ですが、フランツ・リストの弟子として過ごし、リストに勧められて、ウィーンに行ったそうです。ウィーンではカール・チェルニーに師事し、チェコ人であるチェルニーは、クハチにチェコの民族音楽を研究するように勧めたとか。
1858年にはオシエクに戻って、ピアノの個人レッスンを始めると同時に、民謡の収集と分析を本格的に始め、あらゆる南スラヴ諸国の民謡を記録することを決意したそうです。そのためには、相当なお金が必要だったのですが、叔父の遺してくれた援助のおかげで、1869年まで、夏の間は、様々なスラヴ諸国を旅して民謡を採取し、冬の間に、それらを分析・分類して過ごしました。この間に収集した民謡の数は、4000を超えると言われています。クハチは、クロアチア中心部、スラヴォニア、スリェム、イストリア、ダルマチア、スロヴェニア、ヴォイヴォディナ、ボスニア、ヘルツェゴヴィナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアを訪れたほか、オーストリア、イタリア、ハンガリー、ブルガリアにも足を運びました。
1861年には、オシエクにて、スラヴ音楽の演奏と研究のためのクロアチア人の集まりを創設し、この集まりは、後に、オシエクの重要な合唱団「クハチ」となりました。
1871年、ザグレブに移り住み、亡くなるまで、ザグレブに住み続けました。ザグレブでは、オペラ評論家として活動し始めましたが、彼の鋭く、歯に衣着せぬ批評は、たちまち、多くの敵を作ることとなり、いくつかの仕事を失うことにもなったようです。1872年からは、音楽学校で、音楽理論とピアノを教えたりもしますが、その後も、様々な憂き目を味わったようです。
1878年、膨大な量の「南スラヴの民謡」の出版という大仕事に取りかかり始めました。政府や国の文化機関からのいくらかの援助もありましたが、主に、彼の努力と献身によって、1878年から1881年にかけて、4巻(1600の民謡)の出版にこぎつけました。この出版により、彼は、国際的な名声を得ました。
その後、彼は、定職もなく、しばしば経済的に困窮しながらも、彼の興味ある分野での仕事を決してやめることはなく、学術論文を発表し続けました。
彼が70歳の誕生日に発表した「Moj rad/My work」というパンフレットのリストには、191の出版本、未完のものを含む19の手稿のほか、出版された65の作曲作品、手稿の状態での35の作曲作品も含まれています。

以上、参考文献&画像:Josip Andreis, Povijest glazbe 4, SNL, Zagreb,1989